20世紀はピカソもカンディンスキーもポロックもウォーホルも生きた世紀であるが、アイルランド出身の画家フランシス・ベーコンもまた、熱狂的な人気を誇る重要画家である。
ベーコンの絵を知ったのは画廊時代に毎日眺めていたオークションカタログであった。サザビーズやクリスティーズといった世界的オークション会社がセールスを開催する度、オフィスに送られてくる、出品作品の画像とエスティメイト(落札予想価格帯)が記載されたオークションカタログ。時にちょっとした辞書ほどの厚さになるが、勤めていた画廊では、時間の許す限り読み耽るのを許されていた。アートマーケットを知るのにこれほど良い鍛錬はないわけで、今となってありがたさがわかる。
さて、ベーコンであるが彼の絵画は常にオークションカタログの最も目立つ箇所に1P以上を割いて掲載されていて、大作ともなると値段も数十億だったと記憶している。ベーコンの絵画は常にオークションの目玉だった。
けれど、この画家の絵といえば、薄気味が悪い。綺麗なパープルの背景に描かれる人物は大抵の場合顔が絵の具がごっそりと削り取られたかのように歪んで削り落とされている。身体も不思議に歪んでいたりする。神話的な静けさに満ちていて、シュールなのだ。
インパクトはあるが気持ちは良くない。なぜこのような絵画が高額で取引されるのか、当時から今まで、よく理解できないでいた。日本国内ではベーコンの絵画をまとめて見る機会はほとんどないのだ。
そんな折に、葉山の神奈川県立近代美術館でフランシス・ベーコン展を開催するというのを知り、心待ちにしていた。12日からコロナの影響で閉館してしまうため、慌てて出かけてきた。
展覧会はどちらかといえば資料展のようなもので、作品の着想を得るための写真を支持体にしたドローイングなどが主であり、ベーコンの作風を理解するための展示物はポスターしかなかったので、いたって通好みな構成である。しかし、ベーコンの作品の秘密に触れるためには、資料群は抜群の威力を発揮していた。
ベーコンは歴史上の重要人物が新聞や雑誌などに掲載された写真の上などにドローイングを施している。複数枚をよく観察してみると、写真上で最も注目が集まるポイント、顔などが塗り潰されたり破られたりしている一方で、人物の身体構造や写真の構図の連なりを強調するような線が走っているのだ。これはそのまま、ベーコンの描く作品のあり方と通じている。
その所作から想像するに、ベーコンは描けば必ず人の目を集める人物の表情を、自らの作品上の要素から退けることで、通常であれば、画家本人や同業者でしか意識をしないような、絵画上の脇役(魅力的な身体構造やパースペクティブの歪み)を主役に押し上げているのだろう。
ピカソに憧れ、キュビズムやシュルレアリズムに傾倒した経験を持つベーコンらしい表現でもある。しかし、彼の作風は特定のアートの潮流に帰属するものではなく、誰も追随できない独自の境地に達しているものであり、強い存在感を放っている。
神奈川県立近代美術館(葉山館)では、ベーコン展と同時にベーコンの故郷アイルランドとイギリスの物語性に満ちた表現を同館のコレクションとして紹介している。ベーコンの作品を鑑賞する手前に、これらの作例を鑑賞できたおかげで、ベーコン独特の暗さを抱え持つ表現が、一般的に使い古されたこの画家の紹介文としての「2回の世界大戦における人々の精神的な不安を描く」といったことから距離を置き、ルーツとして置き直してみることを楽しめた。知的で誠実なキュレーションだったと思う。
葉山館といえば、敷地内に海を眺められる絶景レストランがあるのだが、いつ訪れても満席である。この日はたまたま席が空いていて、待たずに入ることが できた。頼んだのはハンバーガー。ジューシーで肉厚なハンバーグと火を入れてあるパンがパリッとして美味しい。おそらくイッタラの北欧風のブルーのプレートで、ポテトやオリーブと盛り合わせて出してくれるのも、なんだか楽しい(写真を撮り忘れてしまった)。
空気が澄み切った1月である。海の向こうに富士山も見えた。日本海側は大雪だというのに、富士山のてっぺんにはあまり雪が積もっていない。薄雲から透過した太陽光が、凪いだ海に光の道をつくっていた。
同展は4月から渋谷の松濤美術館に巡回を予定している。
Museum fatigue:美術館づかれ
展示空間で作品を見るごとに1作品を見る時間が減少していく現象を名付けた言葉。本ブログのMuseum fatigueカテゴリーは、アート作品の鑑賞に肉体・精神的疲労はつきものであり、鑑賞後には美術館近くのカフェやレストランでのんびりと座り、作品の印象を語らう時間をもつことが理想的だという考えのもと、筆者が実際に出かけた美術展と近くの飲食店等を紹介するものである。
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